ハンガリー映画界

ハリウッドのハンガリー人

ハリウッドの映画界で大きな活躍をしたハンガリー人たちのストーリー

ハンガリーの有名な言い回しにこのようなものがあります:「世界中どこに行っても必ずハンガリー人に出会う。」この言い回しはとりわけ時代がハリウッドの創世期なら特に当てはまるでしょう。 


1848年の体制転換以降、多くのハンガリー人がアメリカに移住しましたが、やがて第二次世界大戦の大波の中、大陸の中を逃げ惑うことになりました。その中には後に幸運なことに大成功を収めた人々がいました。アメリカの映画界の創設はハンガリー人の移民たちによるものなのです。これからそのハンガリー人たちの驚きのストーリーをご紹介したいと思います。

ハンガリーの有名な言い回しにこのようなものがあります:「世界中どこに行っても必ずハンガリー人に出会う。」この言い回しはとりわけ時代がハリウッドの創世期なら特に当てはまるでしょう。 


1848年の体制転換以降、多くのハンガリー人がアメリカに移住しましたが、やがて第二次世界大戦の大波の中、大陸の中を逃げ惑うことになりました。その中には後に幸運なことに大成功を収めた人々がいました。アメリカの映画界の創設はハンガリー人の移民たちによるものなのです。これからそのハンガリー人たちの驚きのストーリーをご紹介したいと思います。

ウィリアム・フォックス、フォックス・フィルム・コーポレーション創設者(20世紀フォックス)

ウィリアム・フォックスはフリード・ヴィルモシュとして1879年にハンガリーの小さな村、トルチャヴァで生まれ、後にフォックス・フィルム・コーポレーションを設立しました。


ウィリアム・フォックス、フォックス・フィルム・コーポレーション創設者 写真:ウィキペディアより

ハンガリーでの生活が苦しかったため、彼が生後9ヶ月の時に家族全員でアメリカに移住しました。その際、姓を母方の姓のフォックスと変えました。あまりにも幼少の時にアメリカに移り住んだため、フォックスは生涯ハンガリー語を習得することはありませんでした。


彼はニューヨークの一番貧しい地区で育ち、8歳の時にはトイレ掃除などをして働いていました。11人の兄弟がいましたが、貧困のため生き残ったのは6人だけでした。学校にも11歳までしか通えませんでした。


その後毛皮の衣類のセールスマンとして働き、貯めた資金でブルックリンにあったニッケルオデオン社を買収しました。最終的に関連会社を全て手に入れ、それからが彼の天下の始まりでした。フォックス・フィルム・コーポレーションを始めとするフォックスグループを設立し、ハリウッドのスタジオのシステムやハリウッドスター文化の基礎を作り、トーマス・エジソンの一人勝ちだった業界を解き放ったのでした。

映画界への功績

映画プロダクションの仕事を始めてから数年後、フォックスは会社の利益をより上げるためには新しい映画をプロデュースするよりも、少ない投資で既存の映画を数回上映する方が有益であると気づき、映画配給会社のボックス・オフィス・アトラクション・カンパニーを設立しました。これは業界を独占していたエジソン帝国への挑戦でもありました。フォックスはエジソンを相手取り独占禁止法に基づく裁判を起こし、これに勝ったことから映画界に大きな革命をもたらしました。自由競争になり誰でも映画を作れるようになり、映画界は一気にそのクオリティを高めたのでした。フォックスは1914年にLife’s Shop Windowをプロデュースし、翌年にフォックス・フィルム・コーポレーションを設立しました。

まもなく彼は1000以上のフォックスシアターチェーンを擁し、億万長者となりました。その膨大な資金を基に、本業のプロダクションの他にアートシアター系の映画を作ったり、将来有望な監督を発掘したりしたのでした。

彼は実業家として実に才覚がありました。役者を宣伝することでビジネスの可能性が広がることにすぐに気づいたのです。今まで監督と作家ばかりを宣伝していた映画界の常識を覆し、最高の俳優に演じてもらうことが観客を引き付けるために必要なことだと思ったのです。フォックスは無名の俳優のイメージやキャリアを構築して新たなスターを創り出すことに成功しました。

天才的な宣伝方法や民衆の操り方によって、シンシナティの平凡な少女であったセダ・バラを大スターに押し上げたも彼でした。観客は映画スターたちに熱狂し、俳優たちのために脚本が書き上げられました。そしてその利益はもちろん、フォックスにもたらされました。

1923年、彼は新たに20世紀フォックスの前身であるフォックス・ヒル・スタジオを設立しました。1926年、フォックスは莫大な投資をしてMovietoneと呼ばれるサウンドシステムを構築し、ワーナー・ブラザーズと競い、映像と音声が同期した映画(トーキー)を開発し始めました。同じ年にビバリーヒルズの300エーカーの土地に最先端のアートスタジオ、Movietone cityを建設しました。

この時期が彼のキャリアや富の頂点でした。彼は、毎日世界のどこかで少なくとも1つの映画館のスクリーンにウィリアム・フォックスの名前が現れない日はないと自慢していました。 伝説によると、彼は決して100ドル以下の現金を携帯していなかったし、忙しすぎて時間を止めたがっていたため時計をしたことがありませんでした。

彼がハリウッドで働いている間、多くのハンガリー人の俳優、脚本家、クリエイティブな人々を雇いました。しかし彼はハンガリーに帰ることはありませんでした。故郷で映画撮影するために人々を送り出し、その後それを観るだけでした。1999年、フォックス・フィルム・スタジオのスクリーニングルームの壁に記念品がかけられましたが、これはハンガリーの有名な磁器、ヘレンドのものです。


フォックスの生家はごく最近ハンガリーの村、トルチャヴァで見つかりました。生家は彼の功績を讃える博物館に建て替える予定です。彼は芸術、テクノロジー、映画界のビジネスに多大な貢献をしました。現在の映画界を構築したパイオニアと言えるでしょう。


1929年の株式市場の暴落やいくつかの法律上の問題のほか、自動車事故が重なり、彼は破産と戦うための長い闘争を余儀なくされ、最終的にフォックスは1930年、不利な買収によってフォックス・フィルム・コーポレーションを失いました。


1941年、彼は数ヶ月間刑務所で服役しましたが、持ち株を清算し裁判官に賄賂を贈って出所しました。その後、フォックスは彼がブラックリストに載っていることを知り、映画事業から引退することを余儀なくされました。1952年、ニューヨークで73歳の生涯を終えましたが、彼の葬式には映画関係者は誰一人として参列しませんでした。1930年に会社を売却しなければならなかったにもかかわらず、彼の功績は20世紀フォックスの名のもと、数々の映画によって現在も多くの人々の心に刻まれています。

アドルフ・ツコール、パラマウント・ピクチャーズ創設者

アドルフ・ツコール、パラマウント・ピクチャーズ創設者 写真:ウィキペディアより

アドルフ・ツコールはパラマウント・ピクチャーズを創設したことからハリウッドの父と呼ばれています。ゼロから始め、やりたいことを全て成し遂げました。アメリカの映画界を牽引してきた功績は偉大です。


1873年に彼はハンガリーのリチェという町に生まれました。両親は小さな店を営んでいましたが、7歳の時に孤児となってしまいました。


彼は並外れて賢い生徒でしたが、夜学に通いながら12歳から働いていました。15歳の時に小学校を卒業すると、独りでアメリカに渡ることを決意しました。コートの裏ポケットにわずかな持ち物を入れただけで、アドルフ・ツコールは1889年、ニューヨークに降り立ったのでした。


彼が最初に就いた仕事は毛皮商人でした。自由時間には他の移民たちと一緒に野球を楽しんだり、ハンガリーの歌を歌ったりしていました。数年後、同じくハンガリーからの移民であるロッティ・カウフマンと結婚し、貯めた数千ドルを手に故郷のハンガリーに里帰りすることもできました。

Youtube ハリウッドの先駆者たちの歴史

貯めた資金を基に自分の毛皮の店を開く予定でしたが、初めて映画を観た時、この業界は将来大きなビジネスになると閃きました。1903年、ユニオン・スクエアにあるゲームセンターに投資すると大変な利益が出たため、毛皮の商売を辞めて、映画制作と配給という巨大なビジネスに乗り出したのでした。

業界での功績

ツコールの成功は正に、短編映画よりも長編映画の方が利益が出る可能性があることを早々に見抜いていたことにあります。彼は「エリザベス女王」という長編映画をアメリカで独占放映する権利を4万ドルで買収し放映したところ、瞬く間に大成功を収めました。この成功が彼に長編映画の実力を更に確信させたのでした。

1912年、Famous Players Film Companyを設立し、プロデュースした映画、「モンテ・クリスト伯」「ゼンダ城の虜」は予想以上の成功を収めました。後に、彼は巨額の財政支援を受け、有名な舞台俳優を映画界で活躍させることが目標となりました。

ハリウッドに最初のスタジオをオープンさせると、メアリー・ピックフォードやグロリア・スワンソン、ルドルフ・ヴァレンティノ、ゲイリー・クーパー、ダグラス・フェアバンクスなどの有名な俳優たちと一緒に仕事をしました。

ツコールは独占契約を結んだため、俳優たちは他の仕事をすることが出来ませんでした。俳優にとっては財政的に公正な取引とは言えませんでしたが、それでもこれによって彼らは望んでいた名声を手に入れたのでした。今日のパラマウントのロゴにある星の数は、最初に契約を結んだ俳優たちの数なのです。

1916年、ツコールとJesse L. Lasky(ラスキー・カンパニーのオーナー)はパラマウントの所有権を買収し、三社を合併しました。ツコールはパラマウントの新しい社長に就任し、以来ツコールの手腕のおかげで会社は繁栄していきました。

彼は他の業界のパイオニア達のように変わり者でも有名人でもありませんでしたので、普通に裏方の仕事もしたりして、ただのビジネスマンに間違われることもしばしばありました。スタジオではSugarというあだ名で呼ばれていましたが、これはツコールはハンガリー語で「砂糖」という意味だからです。1910年代と20年代におよそ2000もの映画チェーンを作り、2つのプロダクションスタジオを経営し、ラジオへ投資もしましたが、彼の本当の才能は映画業界で花開きました。

彼は映画業界のすべての部門を1つの会社にまとめ、統合的な映画スタジオのモデルを作りました。つまり、パラマウントは映画の制作、流通、そして配給までを司ることが出来たのです。彼は毎朝スタジオを訪れ、常に目を光らせていることでも悪名高かったのでした。

1910年代と20年代、彼のキャリアは頂点に達しました。パラマウント・ピクチャーズを創立したことや、周辺のスタジオや映画館を建設したことで、ハリウッドでもっとも影響力のある人物の一人となりました。しかし、それでも彼の心はいつもハンガリーの故郷にありました。彼は学校を建設するためにお金を送ったり、経済的に恵まれない人々を援助したりしました。自分の故郷を出来るだけ手助けしたいと考えていました。


人生のほとんどをアメリカで過ごしたにも関わらず、彼は故郷のハンガリーの町を忘れることはありませんでした。おそらく彼の心情を一番よく表しているのはこの有名な伝説、彼のオフィスの壁に刻まれている言葉でしょう:「ハンガリー人ばかりのハリウッドでハンガリー人でいることは有利ではないが…時には役立つ」


1932年に起きた大恐慌でパラマウントが破産した際、ツコールは社長を退任し会長の座に就きました。


アドルフ・ツコールは業界のパイオニアであり、他の誰よりも早く映画業界に未来を見出した人物でした。1949には功績を讃えられ、アカデミー名誉賞を贈られました。1953年、自叙伝「The Public Is never Wrong」も発売されました。1949年にパラマウントを引退した後も、1976年に103歳で亡くなるまで名誉会長の座に就いていました。


現在、パラマウントは現存している世界で四番めに古い映画スタジオです。

ベーラ・ルゴシ、「魔人ドラキュラ」

ベーラ・ルゴシ(本名ベーラ・ブラシュコー)といえば、1931年のホラー映画「魔人ドラキュラ」で知られています。この有名な俳優は1882年、ハンガリーのルゴシュで生まれました。町の名前は彼の芸名の由来となっています。


ルゴシは俳優としてハンガリーで活動していましたが、1919年のハンガリー革命の失敗によって、俳優を続けるために国を離れなければなりませんでした。はじめはドイツへ、その後アメリカに渡りました。アメリカでは1931年にブラム・ストーカーのドラキュラのブロードウェイ劇場版を基にした映画で初めてスクリーンに登場し、血に飢えた吸血鬼を演じて見事に成功しました。

ベーラ・ルゴシ 「魔人ドラキュラ」

ルゴシが演じたキャラクターは、それまでの役者のものとは違っていました。彼はドラキュラの恐ろしくもミステリアスかつ魅惑的な描写で瞬く間に有名になりましたが、ハンガリー訛りのアクセントは俳優として非常に不利でした。その結果彼は同じような役ばかり演じることになり、一生を通じてキャラクター俳優にとどまってしまったことに不満を抱いていました。

Youtube ベーラ・ルゴシのドラキュラ

「魔人ドラキュラ」の成功の後、ルゴシはアメリカで一番有名なホラー俳優となりました。「黒猫」や「フランケンシュタイン」主演の伝説の俳優、ボリス・カーロフとの共演も多くありました。これらの映画の後、彼は色々挑戦したにも関わらず他のジャンルで役を獲ることができませんでした。映画関係者によって徐々にマイナーな役者として限定されていったのです。この時期からベーラはモルヒネの中毒になり、転落していきました。この頃にアメリカで最低の映画監督と呼ばれるエド・ウッドと知り合い、低予算映画に出演するなどしていました。

Youtube ベーラ・ルゴシのインタビュー

ルゴシの熱狂的ファンであったエド・ウッドは貧困に喘ぐ彼を見つけ出し、「怪物の花嫁」「グレンとグレンダ」のような最低最悪の出来と悪名高い映画で彼を起用しました。しかし1956年にルゴシが心臓発作で死去したためこのコラボレーションは長くは続きませんでした。ルゴシはドラキュラの衣装を着て埋葬されました。映画で着ていたケープは、ユニバーサル・スタジオに保管されています。

不幸なキャリアの終わり方にもかかわらず、ルゴシは人々から忘れられることはありませんでした:1994年のティム・バートン監督映画「エド・ウッド」で、ルゴシを演じたマーティン・ランドーは、アカデミー賞助演男優賞を獲得しました。


今となってもルゴシはドラキュラを演じた多数の俳優の中でも一番の適役だったと言われています。

マイケル・カーティス、オスカー賞受賞「カサブランカ」の映画監督

マイケル・カーティス(ハンガリー名Kertész Mihály)はハンガリー出身の映画監督であり、世界で最も有名な映画のひとつである「カサブランカ」でアカデミー賞を受賞しています。

マイケル・カーティス、オスカー賞受賞「カサブランカ」の映画監督

カーティスは1886年にハンガリーで生まれ、映画製作や演出などを学びました。1919年にハンガリーの映画産業が国有化されるのを機に故郷を去ることを決めました。


最初にウィーンで働いた後1926年にアメリカに渡り、ジャック・ワーナーに監督として雇われました。「ロビンフッドの冒険」「ミルドレッド・ピアース」そして有名な「カサブランカ」のような古典をはじめとする多くの映画を監督し、アカデミー賞最優秀監督賞を受賞しました。今日に至るまで「カサブランカ」はアメリカ映画至上偉大な3作品に入ると言われています。しかし、この作品が彼の最初のノミネートではありませんでした。過去に4回、「海賊ブラッド」「汚れた顔の天使」「4人の姉妹」「ヤンキー・ドゥードル・ダンディー」でノミネートされていました。カーティスはエルビス・プレスリー、エロール・フリン、ハンフリー・ボガートなどの俳優も起用しました。


彼が英語を完璧に習得しなかったことから逸話が多く残っています。最も有名な話は、撮影中に彼が言った「空の馬を持って来て!」。本当は乗り手のいない馬を連れて来い、という意味だったのだが、その誤りを同僚たちは非常に笑い者にしました。


彼の最も成功していた時期はワーナーブラザーズで働いていた時で、1940年代に独立したのを機に彼のキャリアは低下し始めました。それでも彼は1962年に亡くなるまで映画を作り続けました。ヨーロッパで50以上、米国では100以上の映画を監督しました。

イシュトヴァーン・サボー、映画監督

イシュトヴァーン・サボーは1938年にハンガリーで生まれた監督・脚本家で、代表作「メフィスト」は1981年にカンヌ国際映画祭で脚本賞と国際映画批評家連盟賞を受賞し、2年連続の外国語映画賞へのノミネートとなったアカデミー賞で同賞受賞も果たしています。


第二次世界大戦中、サボーと彼の家族はナチスに追われましたが、孤児院に身を隠して生き残ることが出来ました。彼の映画の一番のテーマが政治的な紛争と中央ヨーロッパの歴史であることは驚くことではないでしょう。


イシュトヴァーン・サボー、1982年オスカー賞受賞映画監督

彼がハンガリーで1960年代に初めて監督した作品「コンフィデンス/信頼」は、1980年にベルリン映画祭で最優秀監督賞を受賞すると同時にアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされています。しかしサボーが初めてアカデミー賞を獲るのは翌年の1981年のことです。「メフィスト」はカンヌ映画祭で最優秀脚本賞を受賞し、サボーの国際的名声を高めました。これらの権威ある賞を受賞したにもかかわらず、彼の最も有名な作品はおそらく1999年の歴史大河ドラマ「太陽の雫」でしょう。この映画はサボーの最も描きたかった歴史的背景を表していると言われています。

Youtube 「メフィスト」のトレーラー

ラルフ・ファインズが主役のこの映画は、ユダヤ人のSonnenschein一家が20世紀前半に体験したことが描かれています。この作品はゴールデングローブ賞で多数の部門でノミネートされ、辛口評論家のロジャー・イベートにさえ称讃されました。サボーは、アネット・ベニングがゴールデングローブ主演女優賞を受賞した「華麗なる恋の舞台で」(2004年)をはじめとする素晴らしい国際映画を今日まで作っています。

ヴィルモス・スィグモンド、カメラマン・映画監督

ヴィルモス・スィグモンド  カメラマン・映画監督 1989年ジャック・ニコルソン主演映画でアカデミー賞受賞写真:エリオット・マークス

ヴィルモス・スィグモンドは1930年にハンガリーで生まれ、非常にユニークなスタイルで知られたハリウッドで有名な撮影監督です。初めはハンガリーで撮影監督としてキャリアをスタートさせましたが、1956年に変化が訪れます。ハンガリー動乱に巻き込まれた際にその様子を撮影し、フィルムを持ってアメリカに亡命したのです。そして動乱の混乱を西側諸国に伝えるのに大きな役割を果たしました。


1962年にアメリカに渡った彼はロサンゼルスでフォトグラファーとして働いていましたが、1960年代には多くの自主映画の撮影監督として映画界に入り込んでいきました。1970年代にロバート・アルトマン監督のカルトクラシック映画「ギャンブラー」に撮影監督として雇われたことが成功の始まりでした。


スィグモンドは独自のアイディアを自由に表現し、現像所で独自の最先端技術を取り入れて、映画に芸術的な映像美を添えました。そのことから若手監督の注目を集め、一躍有名カメラマンとして注目されたのでした。

Youtube 「ギャンブラー」のトレーラー

その後彼はアルトマン監督の「ロング・グッドバイ」、ブアマン監督の「脱出」、そしてスピルバーグ監督の「未知との遭遇」でアカデミー賞最優秀撮影賞に輝きました。


彼は「ギャンブラー」、「ディア・ハンター」「ザ・リバー」、「ブラック・ダリア」などでアカデミー賞に4回以上ノミネートされました。 また、「ウディ・アレンの夢と犯罪」「メリンダとメリンダ」でウディ・アレン監督とも数回仕事を共にしています。 2016年に亡くなるまで、デジタル素材で作業をしない唯一の撮影監督としても知られています。

そしてその他大勢の...

その他にも数え切れないほどのハンガリー人がハリウッドで活躍しています。残念ながら全員というわけにはいかないので、あと何人かご紹介させていただきます。


「お熱いのがお好き」で伝説的なマリリン・モンローと共演したトニー・カーティスもハンガリー人でした。彼は人生の後半、娘のジェイミー・リー・カーティスと連れ立ってハンガリーの名所を度々訪れていることからも、故郷に対する愛着が伺えます。

彼の両親はハンガリーで生まれましたが、その後アメリカに移住しました。ニューヨークで生まれたカーティスは6歳まではハンガリー語を話すことができたそうです。1990年代に彼とその娘はブダペストのシナゴーグを再建する資金調達にも貢献しました。また、ハンガリー文化保存のためのエマニュエル基金を設立し、さらにいくつかのコマーシャルに出演しハンガリーの観光を促進しました。


あなたがハリウッドの古典映画ファンであるなら、ロマンチック映画の巨匠であるジョージ・キューカー監督をご存知でしょう。彼にもまたハンガリーの血が流れていました。両親はハンガリーからの移民でしたが、キューカー自身はニューヨークで生まれました。「フィラデルフィア物語」「マイ・フェア・レディ」「ロミオとジュリエット」などの話題作を次々と手掛けました。 彼はまた、キャサリンヘップバーンを有名女優に押し上げたことでも知られています。

ハンガリー人は音楽分野でも様々な成功を収めています。オスカー賞を受賞した作曲家のミクロス・ローザもハンガリー人でした。 彼はヒッチコック監督の「白い恐怖」「ベン・ハー」そして「エル・シド」のテーマ曲を作曲し、これによって3度のアカデミー賞を受賞しています。


他にもハリウッドで活躍するハンガリー人は多数いますが、ご紹介しきれないのが残念です。アメリカの映画業界ではもはやハンガリー人の存在はなくてはならないものとなっています。「エコノミスト」のチーフエディターのノーマン・マクレア氏は、movieという言葉はハンガリー語のmozi(映画という意味)から来ているに違いないと書いたことさえあります。

なぜこの現象が起こったのかは分かりませんが、もしハンガリー人がいなかったらハリウッドの映画業界は今とは全く違ったものになっていたでしょう。

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