オーストリアでの撮影
オーストリア料理――繊細と折衷
撮影でオーストリアを訪れるならぜひ試しておくべき料理
最終更新日: 2022年11月21日
最終更新日: 2022年11月21日
私たち制作支援会社にクライアントの皆様が撮影の折にいつも尋ねられることがあります。現地でどのような料理を、どこで食べられるか。このような質問にお答えするべく、私たちがお勧めする現地のあらゆる料理をリストアップしました。
オーストリアの料理について考えるとき、しばしばウィーン料理が頭に浮かぶでしょう。しかし、オーストリア料理は非常に多様性があり、それぞれの地方には数多くのユニークで素敵な料理が存在します。私たちが今日知るところのオーストリアの料理は、オーストリア=ハンガリー帝国の最盛期である19世紀において、イタリア、フランス、そしてハンガリーの伝統からの影響を受けつつ発展しました。しばしば、オーストリア人でさえも、彼らのお気に入りがどの国を起源とするのか知りません。オーストリアの食事は、まるでヨーロッパ料理の進化の歴史の教科書だとも考えられるでしょう。
私たち制作支援会社にクライアントの皆様が撮影の折にいつも尋ねられることがあります。現地でどのような料理を、どこで食べられるか。このような質問にお答えするべく、私たちがお勧めする現地のあらゆる料理をリストアップしました。
オーストリアの料理について考えるとき、しばしばウィーン料理が頭に浮かぶでしょう。しかし、オーストリア料理は非常に多様性があり、それぞれの地方には数多くのユニークで素敵な料理が存在します。私たちが今日知るところのオーストリアの料理は、オーストリア=ハンガリー帝国の最盛期である19世紀において、イタリア、フランス、そしてハンガリーの伝統からの影響を受けつつ発展しました。しばしば、オーストリア人でさえも、彼らのお気に入りがどの国を起源とするのか知りません。オーストリアの食事は、まるでヨーロッパ料理の進化の歴史の教科書だとも考えられるでしょう。
ヴィーナー・シュニッツェル
それでは、オーストリアの国民的料理、ヴィーナー・シュニッツェルから始めましょう。本当のところは分かりませんが、ヴィーナー・シュニッツェルは、その名前に反して、イタリアのヴェネツィアにその起源を持っています。既に16世紀には、イタリアの料理人は、仔牛の肉にパン粉を付けて油で揚げた、いわゆるシュニッツェルを作っていました(この調理法は更にイスタンブールのユダヤ人にまで遡ります)。この調理法は陸軍元帥のヨーゼフ・ラデツキーの目に留まり、ミラノ占領の「戦利品」としてレシピをオーストリアに持ち帰りました。このレシピは帝国においてさらに磨きがかけられ、ヴィーナー・シュニッツェルとオーストリアは同義語のように考えられることとなりました。この料理は、仔牛の肉のうちもっとも柔らかい部位で作られなければなりません。ですから、同様の調理法で豚や牛の肉を使って作られたものはヴィーナー・シュニッツェルではなく、ウィーン風のシュニッツェルと呼ばれます。(ドイツ語で「シュニッツェル」とは「薄切り」の意味です)
調理における重要な要素は、肉の厚さ、そして油の温度です。適切なパン粉の層に包まれた、適切な薄さの肉は、適切な温度の油で揚げられることにより、蒸し焼きされるような状態となり、衣はカリッと仕上がります。そして、通常酢のドレッシングで和えられたポテトサラダと共に供されます。
エスターハージー風ローストビーフ
世界的に有名なエスターハージー風ローストビーフはブルゲンラントの名物です。ブルゲンラントはオーストリアで最も東の地域のため、同地の料理はいくつかの国外の伝統、特にクロアチアとハンガリーからの影響を受けています。この料理の名前は、有名なハンガリー貴族のエステルハージ家のエステルハージ・パール・アンタル公爵に因んでいます。彼は外務大臣として、また後にはフランツ・ヨーゼフ1世の顧問として、政治家としての優れたキャリアを持っていました。
パール公は美食家として知られていましたから、彼の名前を冠した料理があることも、何ら不思議ではありません。数々の料理の中で、なぜこの料理がエスターハージの名をつけられることになったのかについては、二つの説があります。一つは、パール公がこの調理法を考案したというもの、もう一つの、より有力な説は、この料理を最初に調理したシェフは、エスターハージ公を唸らせるための料理を作ろうと試み、また新しい料理に公爵の名前を与え、その威光を借りることで、料理を不滅のものとしようと試みたというものです。この料理の調理法は極めて単純です。フライパンで牛肉を焼き、炒めた玉ねぎ、人参、パースニップを添え、サワークリームを載せれば完成です。
クネーデル(団子)
オーストリアのチロル地方の伝統料理は、周囲の森や山に固有のジビエや植物と深い関連があります。チロルで最も典型的な料理は、小麦粉、パンやじゃがいもから作られた、クネーデルと呼ばれる団子です。クネーデルには数々の種類があります。例えば精白粉やライ麦粉から作られるものもあり、中にはハム、ホウレン草やチーズを含んだものもあります。習慣的には、クネーデルはまずスープと共に食べられ、次にザウアークラウト、紫キャベツ、もしくはシチューなどのセカンドディッシュと共に食べられます。デザートとしてのクネーデルも存在し、この場合生地にはジャガイモや練乳を練りこみます。チロル地方の料理はイタリア料理からの強い影響を受けており、チロルのクネーデル、イタリアのニョッキ、そしてハンガリーのノッケドリなど似たものがあります。
ケルンテン風カースヌーデルン
ケルンテン風カースヌーデルンはケルンテン地方の真の伝統料理で、準備には手間が掛かりますが、大変美味しいです。興味深いことに、調理技術にまつわる独自の歴史的エピソードがあります。過去、女性にとって、結婚できるための条件として、生地を特別な方法で包めるようになることが必要とされていたからです。大抵、じゃがいもやチーズが詰め物として用いられており、四旬節における伝統的な食事でした。時が流れるにつれて、多くのバリエーションが考案され、例えば肉、スパイスや干した洋ナシを詰め物に用いたものもあります。
ザッハトルテ
ザッハトルテの歴史は、1832年、ウィーンのメッテルニヒ公爵の館で始まりました。彼はある日、高貴な賓客のために特別なデザートを作るよう命じたのです。「私に恥をかかせることの無いように!」しかし、料理長は病気のために欠勤していたので、この大役は16歳の見習い料理人、フランツ・ザッハーに任せられることとなり、今日ザッハトルテとして知られるケーキの基本レシピを考案したのです。しかし、ザッハトルテが広く認められるまでには長い年月を必要としました。彼が自分の店を持つことができたのは1848年のことで、ザッハトルテの伝統を守ったのは彼の息子、エドゥアルトだったからです。エドゥアルトは帝国宮廷菓子店のデメルで訓練を積み、今日ザッハトルテとして知られるレシピを完成させました。このケーキはまずデメルで売られ、その後にエドゥアルト自身が開業したホテル・ザッハーの名物となりました。このケーキのレシピは今日まで秘伝とされています。後日、デメルとホテル・ザッハーの間で、どちらがオリジナルの「ザッハトルテ」のブランドを使用できるか、20年に渡る係争が起こりました。妥協案として、ホテル・ザッハーは二層のジャムのレイヤーからなる「オリジナル・ザッハトルテ」を、デメルは一層のジャムの「エドゥアルト・ザッハトルテ」を販売することとなりました。
ザルツブルガーノッケルン
通常、ザルツブルクの料理には、少ない種類のシンプルな材料が用いられますが、料理での使われ方は様々です。ノッケルンと呼ばれるザルツブルク風のダンプリングは、ザルツブルクで最も有名なお菓子のモーツァルトクーゲルと並び、この都市の代名詞となっています。ノッケルンは、ザルツブルクを取り巻くメンヒスベルク、カプツィーナーベルク、ガイスベルクの3つの山に敬意を表して、3つの山頂を型取り供されます。
ノッケルンの由来は定かではありません。ナポレオンがザルツブルクを略奪した際にこのデザートを紹介したという説もありますが、現地の人たちはこの説を好んでいません。代わりに、大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウの長年にわたる愛人であった17世紀の女性、ザロメ・アルトの考案によるものだと考えています。ザロメはミラベル宮殿を与えられましたが、これは恐らくこの素晴らしいデザートに対する返礼だったのでしょう。確固とした証拠のあるただ一つの事実はと言うと、19世紀までにはこのシンプルな食べ物は一般市民の間でも人気となり、大公ヨハン・フォン・エスターライヒによるレシピ集にも収録されました。
フリッターテンズッペ
フリッターテンズッペは伝統的なオーストリアのスープで、オーストリアのどこでも食べることができますが、アルプスの雪の多い地方で特に好まれています。これはシンプルなスープストックに薄切りのパスタを加えたもので、一人分の量がやや多いスープになります。この種のスープは、ドイツではフレードルズッペ、イタリアではBrodo con tagliolini di crespelle、ハンガリーではパラチンタテースタレヴェシュとして大変人気があります。
グリューヴァイン
冬の典型的な飲み物と言えば、ドイツ語で「グリューヴァイン」と呼ばれるホットワインで、クリスマスの時期には欠かせない飲み物です。このグリューヴァインはクリスマス市やアルプスの小屋では欠かすことのできない飲み物で、赤ワイン、シナモン、砂糖、オレンジとクローヴを混ぜ合わせて作られます。
グリューワインには無数の種類が存在しますが、「ヤーガーテー」と言われる種類は、赤ワインの他にもラム酒とブランデーを原料としています。また、革新的なオーストリア人の人々たちの手による、ブドウの葉、アルムドゥードゥラー(オーストリアの清涼飲料水)やレッドブルを原料とした「アルコールフリーのグリューヴァイン」なるものも存在しています。
シュトゥルーデル
シュトゥルーデルはアラビア半島を起源とするお菓子で、そこからトルコを介してエジプト、パレスチナそしてシリアへと広まりました。 1453年のトルコによるビザンチウム攻略の後、バクラヴァのレシピはウィーン にもたらされました。これは、カロリーが高く腹持ちが良いため、戦争時の「軍用食」として考えられていました。シュトゥルーデルが上流階級の間で流行したのは、マリア・テレジアの統治下においてです。オーストリアの主婦たちの創造性のおかげで、現代のシュトゥルーデルにはあらゆるものがフィリングとして使われるようになりましたが、最も有名なものは今でも変わらずリンゴです。一般的には、温かいシュトゥルーデルにバニラソースやアイスクリームが添えられた形で供されます。
モーツァルトクーゲル
菓子職人のパウル・フュルストは、ニース、ブダペスト、そしてウィーンでの修行を経て、1884年に彼の名を冠した菓子店をザルツブルクに開きました。彼は品質に優れ、他のどの店にもないようなお菓子を提供しようと考えていました。そして、ヌガート、マジパンとチョコレートを組み合わせることで、球状のお菓子、モーツァルトクーゲルを考案したのです。フュルストはこのお菓子により、1905年のパリ万博で金メダルを受賞しました。しかし、フュルストは彼の発明を商標で保護しなかったので、あらゆる人が彼の成功を真似てモーツァルトクーゲルを販売するようになりました。今日では、どのスーパーマーケットにおいてもモーツァルトクーゲルを見つけることができるでしょう。
パウル・フュルストの孫で、フュルスト菓子店の社長、マルティン・フュルストによると、彼の家族は模倣者たちに大して敵愾心を抱いています。なぜなら、フュルストは今でも最高級の材料を使い、最高品質のモーツァルトクーゲルを生産しているからです。ちなみに、モーツァルトの名前を使用したのは、考案者のパウルがモーツァルトの熱狂的なファンだったからで、マーケティング上の理由からではありません。また、当時モーツァルトはそれほど人気ではありませんでしたから。今日では、フュルストのモーツァルトクーゲルは、最も有名で、最も素敵なザルツブルク土産のひとつだと考えられています。
ご覧の通り、オーストリア各地には独自の食文化がありますから、お勧めするオーストリア料理は、撮影のために滞在する地域によって大きく左右されます。しかし、オーストリアに滞在するからには絶対に試してみるべき料理を一つだけ挙げるとするならば、それはヴィーナー・シュニッツェルになるでしょう。直接お会いする際には更に詳しく名物料理をご紹介できますので、是非ともご一緒しましょう!