オーストリアでの撮影

偉大なオーストリアの俳優たち

オーストリアから世界へ飛び立った俳優たちの栄光のストーリー

最盛期にはオーストリア・ハンガリー帝国は文化大国でしたが、崩壊後の戦争と政治的混乱の影響にもかかわらず、この伝統は今日まで両国で残されてきました。以下にご紹介するのは世界的な称賛を受けているオーストリアから輩出された俳優たちの物語です。

最盛期にはオーストリア・ハンガリー帝国は文化大国でしたが、崩壊後の戦争と政治的混乱の影響にもかかわらず、この伝統は今日まで両国で残されてきました。以下にご紹介するのは世界的な称賛を受けているオーストリアから輩出された俳優たちの物語です。

マキシミリアン・シェル (1930-2014)

マキシミリアン・シェル出演の「ニュールンベルグ裁判」(1961) 


マキシミリアン・シェルは1944年にウィーンで生まれましたが、ナチス軍のオーストリア占領中に両親と共にスイスのチューリッヒに移り住み、戦争が終わると家族はオーストリアに戻りました。その後シェルは国内外で認められた最初のヨーロッパの俳優になりました。彼は第二次世界大戦後にオスカーを獲得した初のドイツ語を話す俳優でした。


シェルの父親はスイス人作家、母親はオーストリアの女優でした。彼はチューリッヒの大学で哲学と美術史を学びました。その後ミュンヘンとバーゼルでも勉強し、そこで彼は23才で舞台で俳優デビューを果たしました。シェイクスピアやジョン・オズボーンの作品を演じ、2001年と2005年にはロサンゼルスのオペラ座でプラシド・ドミンゴのゲストとして登場し、オペラも披露しました。

Youtube オスカー俳優のマキシミリアン・シェル

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28歳の時、彼にとっての最初のアメリカ映画「若き獅子たち」でマーロン・ブランドやモンゴメリー・クリフト、ディーン・マーティンらと共演しました。1961年にはドイツ側の被告の弁護人を演じた『ニュールンベルグ裁判』でアカデミー賞主演男優賞を受賞。ハリウッドで最も知られるドイツ語俳優の一人となりました。彼は俳優業以外でも成功を収めており、監督作のツルゲーネフの小説を映画化した「初恋(ファースト・ラブ)」はオスカーにもノミネートされました。


のちに彼はHBOの映画「スターリン」(1992)でレーニンの生涯を描き、「リトル・オデッサ」ではティム・ロスとエドワード・ファーロングの父親役を演じました。近年では「ヴァンパイア」「Telling Lies in America」や「ディープ・インパクト」などにも出演していました。

彼の妹、マリア・シェルもまた有名な女優です。彼は「リトル・オデッサ」の撮影中に親しくなったジョン・ヴォイトから頼まれ、彼の娘のアンジェリーナ・ジョリーの名付け親にもなりました。スイスとオーストリアの二重国籍を持ち、ロサンゼルスとオーストリアのPreiteneggの両方に住まいを持っていました。2014年にインスブルックで83歳で亡くなりました。

ロミー・シュナイダー (1938-1982)

「ルートヴィヒ」の撮影中のロミー・シュナイダー。Bad Ischl, 1973 写真: Wikipediaより

ロミー・シュナイダーは1938年にウィーンで生まれました。父親はドイツの俳優で、母親はオーストリアの女優でした。彼女が1歳になる前に家族でドイツに移り住んだので、彼女はオーストリアの市民権を持っていませんでしたが、彼女は常にオーストリアの女優と呼ばれることを好みました。ロミーはケルンのデザインスクールに通っていた1953年に、「再び白いライラックが咲いたら」という母親の出演作でデビューしました。


オーストリアの皇妃エリザベートを描いた「プリンセス・シシィ」三部作で彼女は大ブレイクを遂げました。彼女のパフォーマンスは非常に高く評価され、シリーズはオーストリアとドイツの映画館で最高の興行収入となりました。この時彼女はまだ18歳にもなっていませんでしたが、この映画のおかげで彼女の人気は大変なものとなり、自由に外出することもままならなくなりました。そのためシリーズの4作目の出演を断り、フランスに移住することにしました。

Youtube ロミー・シュナイダーのシシィ

彼女は1958年に「恋ひとすじに」の撮影中にアランドロンに出会いました。その1年後、お互いの第一印象が最悪だったにも関わらず婚約するまでに惹かれ合っていました。ドロンはロミーのことを無邪気な小さな女の子だと思っていたし、ロミーはドロンはハンサムで若くて、身成りのきちんとした紳士だと思っていました。その後の彼らの関係は波乱に満ちたドラマのようでした。1963年に彼らは婚約を解消し、二人とも仕事に慰めを求めました。同年、彼女は映画 「枢機卿」でゴールデングローブにノミネートされました。1969年にドロンはロミーに映画 「太陽が知っている」で共演を持ちかけ、最も絶賛された共演作となりました。


ロミーの14歳の息子は1981年に事故で亡くなり、彼女は生涯それを乗り越えることはできませんでした。そして1982年、パリのアパートで心肺停止で死亡しました。

クリストフ・ヴァルツ

クリストフ・ヴァルツは、1956年にデザイナーの両親のもとにウィーンで生まれました。彼は生まれて間もなくドイツの市民権を得ましたが、2010年にオーストリアの二重市民権を求めました。「私はウィーンで生まれ、ウィーンで育ち、学校にも行って俳優としてのキャリアもここで始まった。オーストリア人以外の何者でもないじゃいか」


2012年のクリストフ・ヴァルツ写真: Wikipediaより

ヴァルツはウィーンとニューヨークで演劇を学び、ウィーンとチューリッヒで俳優として活動し始めました。その後彼はテレビにも出演し始めます。ヴァルツはドイツ語、フランス語、英語の3ヶ国語を流暢に話せため、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、フランス人、スイス人、ドイツ人、オーストリア人のどの役でも完璧に演じることが出来ました。クエンティン・タランティーノは2009年の映画「イングロリアス・バスターズ」で彼を抜擢し、アカデミー賞助演男優賞を獲得したことから人気は更に確固たるものとなりました。


タランティーノ監督は、ハンス・ランダは彼が描いたキャラクターの中でも最高傑作で、もしその役をヴァルツが演じなかったら、この映画は成功しなかっただろうと述べています。彼は次に手掛けた映画「ジャンゴ 繋がれざる者」でもヴァルツをキャスティングし、世界的に高い評価を受けてオスカーも受賞しました。

Youtube オスカーを獲得したクリストフ・ヴァルツ

Youtube 「ジャンゴ 繋がれざる者」のヴァルツ

2014年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムで星型のプレートに彼の名前が掘られました。それは彼がハリウッドで成功したことを意味します。2015年、彼は「007スペクター」で悪役を演じた時にこう言っています。「悪役を演じることは私にとって常に魅力的でした。 映画の中で悪者は常に重要で劇的な役割を担っており、英雄が戦わなければならない対立を体現しているからです。」

ヴァルツは3人の子供の父親で、それぞれベルリン、ロンドン、ロサンゼルスに住んでいます。 テレビのインタビューで、ドイツ人とオーストリア人の違いは何であるかと尋ねられ、彼は答えました:「ドイツ人とオーストリア人は戦艦とワルツの踊りの違いのようです。」

アーノルド・シュワルツネッガー

2003年のアーノルド・シュワルツネッガー 写真: Wikipediaより

アーノルド・シュワルツネッガーは1947年にグラーツ近郊の小さな町、タールで生まれました。彼は幼い頃から父親の厳しい躾のために多くのスポーツに取り組んでいましたが、14歳の時に彼の尊敬するレッグ・パークのようになりたいと思い、ボディビルを選びました 。1965年から1980年にかけて、努力が実り6つの世界タイトルと7つのミスター・オリンピアのタイトルを獲得し、「オーストリアンオーク」というニックネームで呼ばれました。「 60年代後半に勝者となってから、私はずっと素晴らしい運に恵まれていると思っています。人はこのような考え方はうぬぼれだと思うかも知れません。確かにそうです。謙虚さは私には似合わないし、これからもそうでないことを願います。」故郷では今までの業績から彼は英雄と見なされています。


シュワルツネッガーは幼い頃から演技に興味があり、映画で見てきた英雄のキャラクターは彼を魅きつけました。筋骨隆々の体格は、1969年のニューヨークの「SF超人ヘラクレス」で初めて演じるのには役立ちましたが、彼の強い訛りと発音しにくい名前によって、アメリカでの最初の数年間は活動が困難でした。彼が一躍有名になったのは、主役のコナンを熱演した1982年の映画「コナン・ザ・グレート」でした。1984年の映画「ターミネーター」では、映画全体で17の文章しか喋っていないにも関わらず彼の出世作となり、俳優としての地位を不動のものとしました。

Youtube 「ターミネーター2」のトレーラー

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ハリウッドで大ヒット作に恵まれたおかげで、彼の俳優としてのキャリアは軌道に乗りました。アクション映画の他にも「ツインズ」や「キンダーガートン・コップ」のような多くのコメディ映画でも引っ張りだことなりました。彼の訛りのある英語はかえって強みとなりました。1992年にはSchatziというレストランをサンタモニカにオープンしました。Schatziはドイツ語で「恋人」または「最愛の人」を意味します。


「ターミネーター3」の撮影後、彼は演技のキャリアを中断して政治に集中すること決めました。それは常に彼の夢でした。そしてついに2003年に彼はカリフォルニア州知事に当選しました。


しかし、彼の人気は死刑制度を導入した後に低下し始めました。グラーツのスポーツスタジアムは2005年までは彼を讃えて彼の名前がつけられていましたが、グラーツの人々は死刑制度の熱狂的支持者は尊敬できないと判断し、彼の名前がついたスタジアムについての議論がなされました。知事としての彼は非難され、法律を廃止すべきという提案をこの年3度も拒絶しました。このため、グラーツの社会民主党、緑の党、共産主義者の代表は、スタジアムから彼の名前を削除すべきと提案しました。しかし各党の権力争いで結論が出ない中、シュワルツネッガーは自らの名前をスタジアムに使用することを禁止し、以来、UPCアリーナという名前に改称されました。そして彼はまたグラーツ市の知事から受け取った尊敬のシンボルである指輪をも送り返しました。このような確執にもかかわらず、彼は彼の心はグラーツにあり、真にオーストリア人であり続けると述べました。


彼は米国での政治経歴がありながらオーストリアの市民権を維持することを許可された数少ない人の一人です。2010年、親友のシルベスター・スタローン監督の2010年の映画 「エクスペンダブルズ」でカメオ出演を果たし、2011年には演技の世界に戻りました。彼の政治的見解と私生活は完璧ではなかったかもしれませんが、彼はすべての夢を懸命な努力によって実現させたという意味で良い模範です。このため、彼の64歳の誕生日には洗礼を受けた故郷であるタールに彼の博物館と銅像が建てられました。

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