オーストリアでの撮影

オーストリアでの写真の歴史

オーストリアで最も重要なフォトグラファ

写真の起源は、18世紀のオーストリアに遡るということはあまり知られていません。ヨハン・クリストフ・フォクトレンダーによって設立されたフォクトレンダー社は、写真技術に携わる最も古い会社のひとつです。当時、このウィーンを拠点とする家族企業は航海のために必要な器具の開発改良に携わっていましたが、19世紀初頭のフォクトレンダーの死後、この会社は、潜望鏡やオペラグラスといった光学機器の生産にも着手しました。


1839年に写真技術が発明された後、最初のカメラレンズはフォクトレンダー社の分析的計算により製作されました。これは写真技術の実用化への最初の歩みのひとつでした。これらのレンズはハンガリー生まれの数学者、ペッツヴァル・ヨージェフにより計算され、デザインされたもので、後にフォクトレンダーの孫によって更に改良されました。彼は新しいレンズを使うことにより、露光時間を20~30分から1~2分と劇的に短縮することに成功しました。これらのレンズは、その後数十年にわたって人物写真の基本的装置として使われたため、フォクトレンダー社は写真産業における要石のひとつとなりました。


1849年、フォクトレンダー社は、初の金属製のカメラを製造しました。1868年までには、当時としては破格の数である一万枚のカメラレンズを製作し、19世紀末には、フォクトレンダー社は写真産業で有数の会社となりました。

写真の起源は、18世紀のオーストリアに遡るということはあまり知られていません。ヨハン・クリストフ・フォクトレンダーによって設立されたフォクトレンダー社は、写真技術に携わる最も古い会社のひとつです。当時、このウィーンを拠点とする家族企業は航海のために必要な器具の開発改良に携わっていましたが、19世紀初頭のフォクトレンダーの死後、この会社は、潜望鏡やオペラグラスといった光学機器の生産にも着手しました。


1839年に写真技術が発明された後、最初のカメラレンズはフォクトレンダー社の分析的計算により製作されました。これは写真技術の実用化への最初の歩みのひとつでした。これらのレンズはハンガリー生まれの数学者、ペッツヴァル・ヨージェフにより計算され、デザインされたもので、後にフォクトレンダーの孫によって更に改良されました。彼は新しいレンズを使うことにより、露光時間を20~30分から1~2分と劇的に短縮することに成功しました。これらのレンズは、その後数十年にわたって人物写真の基本的装置として使われたため、フォクトレンダー社は写真産業における要石のひとつとなりました。


1849年、フォクトレンダー社は、初の金属製のカメラを製造しました。1868年までには、当時としては破格の数である一万枚のカメラレンズを製作し、19世紀末には、フォクトレンダー社は写真産業で有数の会社となりました。

カメラクラブ

革新的な技術的進歩のおかげで、1890年から1914年の間に写真芸術は活発となり、カメラクラブは社会生活において人気の場となりました。カメラクラブは、イギリスとフランスのクラブをモデルとし、ウィーン近郊、グラーツ、ザルツブルク、そしてリンツなどに設立されました。

ウィーンのカメラクラブの設立目的は、プロ・アマチュアを問わず、写真に興味ある人たちに交流の場を提供するためのものでした。しかし、愛好家たちは急速に発展する写真技術についていくことがでできなかったため、離脱してアマチュアのためのクラブを設立することになります。こうしてカメラクラブに残ったメンバーたちは、技術的進歩を最大限に活用しながら、写真という表現手法を、芸術の一分野として認めさせることを使命としたのです。1894年以降、彼らは「Wiener Photographische Blätter」という月刊誌を刊行し、クラブのメンバーの作品を発表しました。

ウィーンの美術史美術館のロビー(1894年、Wiener Photographische Blätter誌収録)所蔵: Österreichische Nationalbibliothek

日刊紙の成長にともない、20世紀初頭からは、写真技術の目的は芸術作品を作ることだけではなく、ジャーナリズムを補助するものとなりました。


第一次世界大戦では数多の悲惨な出来事を報道せざるを得なかった新聞社所属のフォトグラファたちは、戦間期には次第に一般庶民の生活の何気ない日常をありのままに伝えることに興味を示すようになりました。しかし、芸術的な自己表現は重要な要素として残り続けました。写真撮影の目的は現実を記録することだけではなく、フォトグラファの個性とスタイルを表現するものでもあるからです。

インゲ・モラスは最も成功したオーストリア女性のフォトグラファの一人で、彼女は自己表現と現実主義的な描写により成功を収めました。

彼女の本名はインゲボルグ・メラートで、1923年にグラーツで生まれました。彼女の誕生後まもなく、一家はダルムシュタットへ、そしてベルリンへと移りました。ベルリンとブカレストで学業を修めた後、彼女はオーストリアに戻り、第二次世界大戦後にはザルツブルク、後にはウィーンでジャーナリストとして活動しました。1946年から1949年の間、彼女はアメリカ合衆国広報文化交流局で編集者および翻訳家として働きました。彼女は文学のテキスト、ラジオドラマや記事を編集し、またKulturzeitschrift Heute誌の写真の編集を担当しました。


1949年には、エルンスト・ハースの援助により、彼女はパリへと移り、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロバート・キャパ、デヴィッド・「シム」・シーモア、ジョージ・ロジャー、そしてウィリアム・ヴァンディヴァートらによって設立された世界に名高い写真エージェント、マグナム・フォトの編集者として働く機会を得ました。これが彼女が写真に興味を抱く切っ掛けとなったのでした。1951年には彼女はロンドンで写真のコースを履修し、シモン・グットマンの弟子となったのです。


既に1953年には、彼女はマグナム・フォトのフォトグラファとして活動するのみならず、ヴォーグ、ライフやパリマッチのように広く知られた雑誌のフォトグラファとしても活動するようになりました。彼女はフリーのフォトグラファとして頭角を現し、イラク、イラン、シリア、メキシコ、チュニジア、アメリカ、そしてヨーロッパ各地を巡って写真を撮影しました。


1956年には最初の写真集「Guerre à la tristesse」を出版し、同年には最初の個展をウィーンのヴュルトレ画廊で開催しました。1950年代の終わりには、モラスは数々の映画の制作現場を写真家として記録しました。そして、マリリン・モンロー出演の映画、「荒馬と女」においてモンローの夫であるアーサー・ミラーと知り合うこととなるのです。1962年のミラー・モンロー夫妻の離婚の後、モラスとミラーは結婚します。モラスにとって、ミラーは旅行と芸術に対する情熱を分かち合えるよきパートナーとなりました。


70年代から80年代にかけて、彼女はアメリカ、ヨーロッパ、そして日本において数多くの写真展を開催しました。彼女は彼女自身のプロジェクトで写真を取ることを好みましたが、依頼を断ることはありませんでした。実のところ、彼女は芸術的肖像写真で名声を得ているのです。

2010年には、彼女を記念して、ウィーンの12区のある通りが「モラス通り」と名付けられました。彼女の生まれ故郷であるグラーツではインゲ・モラス通りが、そしてザルツブルクではインゲ・モラス広場が彼女の名を不朽のものとしています。

現代オーストリアの写真業界

20世紀末には、緩やかとなった社会的規範のおかげで、芸術がさらなる発展を遂げるための余地が生まれました。以前では考えられないような、大胆な作品でさえも受け入れられるようになったのです。20世紀の文化は近代化によって形作られましたが、旧時代に対する敬意が忘れ去られた訳ではありません。抽象的で想像上にしか存在しないフォトコラージュ、芸術家によるセルフポートレート、ファッション写真、そして裸体写真など、これら全てが20世紀の美術に典型的なものだと言えるでしょう。


オーストリアのフォトグラファ、アンドレアス・H・ビテスニッヒは、弱体化する倫理的規範を逆手に取ることで、世界で最も有名なヌード写真家となりました。

「今日最大のヌード写真家のひとりであるウィーン生まれのアンドレアス・H・ビテスニッヒは、壮麗で、喚情的で時には議論を呼ぶ彼の作品を通して、人間の身体に対する私たちの視覚的概念を一変させた。」スチュアート・バイウォーター
Roy, Vienna 1995 #01 © Andreas H. Bitesnich

彼は1964年にウィーンで生まれ、専門的背景を持たないまま、1988年には写真家としての活動を始めました。彼は人体を彫像のように表現するユニークな手法と、完璧な照明の使用によりヌード写真家としての名声を得ましたが、ファッション写真や自然写真の分野においても活躍しています。彼の最初の写真集「Nudes」は1998年に出版され、同年のコダックのフォトブック賞を受賞しました。ちなみに、ビテスニッヒは写真家としてだけではなく、才能ある作曲家としても知られています。


興味深いことに、彼の元アシスタントのひとりであるマリオ・シュモルカは現代で最も有名なファッション写真およびポートレート写真のフォトグラファのひとりだと考えられています。


マリオ・シュモルカは1975年にウィーンで生まれ、ウィーンおよびミラノで学業を修めた後、同地でモスキーノ、プラダやヴェルサーチをはじめとする、そうそうたるクライアントたちのための制作プロジェクトに参加しました。

ウィーンに戻ったのちは、フリーの写真家として、ドイツ版ヴォーグ誌、イタリア版ヴァニティ・フェア、グラマー、マリー・クレール、そしてオーストリアのファッションと写真を扱う「Peng!」誌などの国際的な雑誌のための仕事を手がけました。2005年に出版された彼の最初の写真集「Intense」に収録された写真は、ウィーンで二回展示されています。彼は、ファッション写真や芸術的写真の他にも、バー・ラファエリ、マノロ・ブラニク、トミー・ヒルフィガーといった幾人かのセレブリティのポートレートにも携わっています。2012年には、オーストリアのファッション賞を受賞しました。


Mark van der Loo shot by © Mario Schmolka

21世紀においても、オーストリアは200年前と同じく、写真の進歩において際立った役割を果たしています。写真げじゅつの魅力は、数々のミュージアム、ギャラリー、そしてフェスティヴァルを通じて、旅行者、そしてオーストリア市民に余すところなく伝えられています。ウィーンのギャラリー、ヴェストリヒトとオストリヒトでは数多くの歴史的および現代の写真展やウィーン・フォトブック・フェスティヴァルのようなイベントが開催されており、アマチュアやプロのフォトグラファが写真集を出展しています。

オーストリア最大の写真フェスティヴァル、「アイズ・オン」は2年毎に、写真の月である11月に開催されます。オーストリア内外の多数のフォトグラファたちが、ウィーン各地のギャラリー、ミュージアム、図書館やパブリックスペースで作品を展示します。写真展の他にも、出版記念パーティ、コンサート、専門家によるトークイベントやワークショップに参加することもできます。さらには、「Camera Austria International」誌による、卓越した写真のイベントもグラーツで開催されます。つまり、才能あふれるオーストリアのフォトグラファたちは、彼らの作品を世界に向けて発表し、世界的名声を得る機会に数多く恵まれているのです。

このページをシェアする

その他のインサイト