撮影ロケ地
ハンガリーの街での撮影!
ロケ地を詳しく理解するために、これらの都市の歴史を知ってみましょう
最終更新日: 2022年11月21日
最終更新日: 2022年11月21日
ハンガリーではブダペストが絶対的中心地です。ブダペストはハンガリーで紛れもなく最大の都市ですが、ブダペストに住んでいる人はたとえどんな大都市だとしても他の町に住んでいる人を田舎者呼ばわりします。あるいは、「田舎者」が他の都市からブダペストに行く場合、たとえ地理的に南に移動しなければならなくても「ペストまで上る」の言い方が正しいと言います。これらの表現は、ブダペストの特権がハンガリーの歴史と文化にどのように深く埋め込まれているかをよく表しています。しかし、ハンガリーの他の大都市における自信の欠如や卑下は根拠のないものです。これらの都市も千年あまりの歴史を持ち、同じくらい魅力的な建築と街並み、都市の生活様式があります。
Progressive Productionsは、顧客がロケ地をブダペストだけに限定しないように特別な注意を払っています。その理由は、ハンガリー国内がそれほど広くなく、一番遠い町でさえも車で2〜3時間もあれば行くことが出来るからです。そしてこれらの町での撮影は、ブダペストで撮影するよりもプロジェクトの予算的に有利です。これからいくつかの都市をピックアップして、その豊かな歴史とその特徴を生かしたロケの可能性を探って行きましょう。
ハンガリーではブダペストが絶対的中心地です。ブダペストはハンガリーで紛れもなく最大の都市ですが、ブダペストに住んでいる人はたとえどんな大都市だとしても他の町に住んでいる人を田舎者呼ばわりします。あるいは、「田舎者」が他の都市からブダペストに行く場合、たとえ地理的に南に移動しなければならなくても「ペストまで上る」の言い方が正しいと言います。これらの表現は、ブダペストの特権がハンガリーの歴史と文化にどのように深く埋め込まれているかをよく表しています。しかし、ハンガリーの他の大都市における自信の欠如や卑下は根拠のないものです。これらの都市も千年あまりの歴史を持ち、同じくらい魅力的な建築と街並み、都市の生活様式があります。
Progressive Productionsは、顧客がロケ地をブダペストだけに限定しないように特別な注意を払っています。その理由は、ハンガリー国内がそれほど広くなく、一番遠い町でさえも車で2〜3時間もあれば行くことが出来るからです。そしてこれらの町での撮影は、ブダペストで撮影するよりもプロジェクトの予算的に有利です。これからいくつかの都市をピックアップして、その豊かな歴史とその特徴を生かしたロケの可能性を探って行きましょう。
セーケシュフェヘールヴァール、歴代国王の町
ハンガリーの記録に残る最初の首都がエステルゴムであることを知っている人はほとんどいません。マジャール人の大首長でハンガリー大公であるゲーザの息子として生まれたイシュトヴァーンは、初代の王となり、エステルゴムを首都と定めましたが、国の最大の大聖堂はセーケシュフェヘールヴァールに建設しました。これが、セーケシュフェヘールヴァールがハンガリーの政治的、宗教的中心地となった理由です。大聖堂は王室の戴冠式の公式の場所となりました。38人のハンガリーの王がここで戴冠し、長い間ここはハンガリーの王たちの埋葬場所でもありました。大聖堂は市の中心地に建てられ、その周囲に町が発展して行きました。城壁はのちにトルコ軍からの征服から守るために作られました。
1500年代末から1600年代初頭にかけてのトルコ軍との絶え間ない戦いの間に大聖堂が爆破され、ハンガリー人たちはその瓦礫を使って市壁を強化しました。今日のセーケシュフェヘールヴァールの中心部は、ほぼ完全に旧市街の市壁の内側にあります。彼らは後に壁の一部を取り壊し、その場所に道路を鋪装しましたが、このことは市の景観を特に失うものではありませんでした。今日ここを歩いてみると、中世の建物も多くありますが、他にも様々な時代やスタイルのものを見ることが出来ます。道の場所や建物の外観は中世以降ほとんど変わっていません。これが、本格的な中世ヨーロッパの環境を探している人にセーケシュフェヘールヴァールをお勧めする理由です。
1800年代半ば頃、荘厳でロマンチックな建築群がブダペストの街並みを作り上げました。この時代のハンガリーの建築の父といえば、疑いようもなくイブル・ミクローシュでしょう。彼の代表作はブダペストの国立オペラ座とトゥラ城です。イブルがセーケシュフェヘールヴァールの出身であることから、セーケシュフェヘールヴァールのその時代の最も代表的な建物は全てイブルによって設計されたと多くの人が信じています。証拠が残っていないためこれは単なる仮定ではありますが、これらの建物とブダペストの建築様式の間には明白な類似性があります。
セーケシュフェヘールヴァールの郊外は1930年代まで大小の宮殿で繁栄していましたが、その後の第二次世界大戦とロシアの占領によって、社会主義体制がすべてを変えてしまいました。戦争中のアメリカとイギリスの爆撃は事実上都市を破壊しました。社会主義時代は、宮殿などを不平等の象徴と見なしたため、それらを再建する代わりにコンクリートの団地を建てました。これが、セーケシュフェヘールヴァールの中心部がそのような建物に囲まれている理由です。中世の家々の裏には団地が並び、それらは美しくも現代的でもありません。残念なことに、このような建物群は他の都市やブダペストでも見られます。社会主義は歴史的中心部の美しくロマンチックなバロック様式の建物に直接隣接してこれらを建ててしまったのでした。
セーケシュフェヘールヴァールは、中世の街並みに囲まれた狭い通りが残っており、中世の雰囲気を撮影するのに理想的な場所です。または、街の広場や美しい公園を探しているのであれば、ここがお勧めです。また、ソビエト時代の建築の傑作もここでも見ることができます。ブダペストからは車でわずか1時間で行くことが出来ます。
バラトンフュレド、ハンガリーの海の首都
ハンガリーには海がありませんが、バラトン湖という巨大な湖があり、ハンガリーの海と呼ばれています。この湖はハンガリー人にとって特別な場所です。多くの人にとってそこは夏の休暇を過ごす場所であり、その他の人にとっては夢見る旅先でもあります。若者たちにとってはバラトン湖はパーティーや社交の場でもあり、家族連れや年配の人々にとってはゆっくり休んだりハイキングをしたりするための場所でもあります。周辺には多くの村や大きな町がありますが、その中でも間違いなくバラトンフュレドは最も古い歴史を持ち、そして最も豊かな都市です。
1800年代のこの街は活気があり、夏の間はブダペストや他の大都市から多くの人が訪れていました。その時代には湖で泳ぐことは流行っていなかったのですが、ここには温泉があったため賑わっていました。町には活気に満ちたレジャーや劇場、ダンスホール、そして数え切れないほどのバーがあり、保養地としてとても人気がありました。
この時代が繁栄の時代(ブルジョアジーの台頭の時代)でした。都会的なライフスタイル、街の広場の整備、アッパーミドル層の別荘などがこの時代の典型です。バラトン湖畔には長い遊歩道が建設され、美しい景色を眺めることができました。街の中心部の建物は地中海の街の雰囲気を連想させ、周辺には無数の別荘が建ち並んでいます。バラトンフュレドはカルチャーの中心の街として成功したのでした。
1930年代に起こった大恐慌によってバラトンの発展は終止符を打ち、都会的なブルジョアライフを持続することは難しくなりました。その頃から湖で泳ぐことがポピュラーになり、人々は夏休みの二ヶ月間、湖畔の村の小さな別荘でお金をかけずに休暇を過ごすことが主流になりました。今日に至るまで、バラトンフュレドは上流階級の保養地、ブルジョアの街、地中海の水辺の街の雰囲気が混在しています。多様性のある街は常に新しい発見を秘めており、まだそれほど撮影場所としても知られていないので、映画撮影にも様々な可能性を見つけることが出来ます。バラトンフュレドまではブダペストから車で1時間40分で行くことが出来ます。
ドゥナウイヴァーロシュ、ロシアの独裁者、スターリンの街
1945年から1989年の体制転換まで、ハンガリーはソ連の占領下に置かれていました。ソ連の独裁者スターリンは、その頃スターリン市と名付けられていたドゥナウイヴァーロシュのような人工的に作られた都市で、社会主義システムの万能性と成功を証明しようとしていました。その計画とは、何もないところから工業開発と鉄鋼製造のリーダーとなることができるような都市、そして現代の社会主義的生活様式を具体化するようなものを創造することでした。
1950年5月に小さな村が「社会的協力」によって開発され、1951年4月に正式に「市」となりました。しかし1953年に独裁者が死去したのち、国の経済的後退も相まって人々はこの街を間違った経済的概念のモデルと見なし、急速に魅力を失って行きました。
街の建築は、社会主義のリアリズムスタイルを完璧に現しています。主任建築士のワイナー・ティボルはドイツで学びましたが、ロシア、パリ、チリでも働いた経験があり、ロシアの占領後にハンガリーに戻ってきました。社会主義的リアリズムはスタイルではなく、政治的イデオロギーに基づく創造的なプロセスであることを知っておくことは重要です。このようなイデオロギーを理解し、機能的なアートワークでデザインされたこれらの建物には、社会主義イデオロギーとその社会観が無数に存在しています。バウハウス運動のモダニスト的意図がこの建築様式の背景となっています。劇場や映画館のような社交空間、そしてそれらを取り囲む住宅団地をつくることはすべて社会主義モデルに基づいています。今日のその姿はその後消えてしまった歴史の中の時代を思い出させてくれるものです。
ドゥナウイヴァーロシュは暗い社会主義時代を視覚化したい映画にとって理想的な場所であるだけではありません。消えつつある20世紀前半のモダン主義の機能的な建築の世界を探しているのであれば、ここでの撮影をお勧めします。この時代の最も思慮深くデザインされた建物はここで見つけることができます。それらのユニークな美しさは他と比べることが出来ません。ブダペストから市内へは車で1時間ほどで行かれます。
ペーチ、欧州文化首都
ペーチ市はハンガリーの最も南に位置する街で、春が最も早く訪れ、秋は遅く来ることからしばしば地中海の町と呼ばれています。またここは数え切れないほどの文化イベントや若者でいっぱいのにぎやかな大学都市です。街が国際的にも有名になったのは、2010年に「欧州文化首都」に選ばれた時からです。ヨーロッパの各都市の中から選ばれた街には1年間この称号が与えられ、期間中に都市の文化的生活が大きく発展したことを示さなければなりません。当然のことながら、この称号は大きな経済効果をもたらしたので、ペーチはジョルナイ地区をはじめ、様々な新しい都市開発を行うことが出来ました。
ジョルナイは19世紀にペーチにセメント工場を創設した商家の名前です。ジョルナイ・ヴィルモシュの手によって、家族経営の企業は世界的に有名になりました。ヴィルモシュは当時絵画に夢中でしたが、家族のために工場の経営を引き継ぐことにしました。彼は、基礎原料とそれらの化学反応を深く知ることが業界での成功の秘訣であることを思いつき、さまざまな試みを始めました。そして工場をセメントから陶器や装飾品を作る方向に変え、ヨーロッパでも真新しい技術として数えられる特別な着色法を生み出しました。彼の作品は1878年にパリで開催された展覧会で展示され、そこで金メダルを獲得しました。1885 - 86年ごろ、彼はエオシンと呼ばれる色素を発見しました。その赤い蛍光色素は花瓶に金属の豊かな輝きを与えました。この材料は装飾品に使うだけでなく、建物などのより広い表面を覆うことができたので、このことがアール・デコの建物の装飾がしばしばエオシンによって艶が出されている理由です。この材料は建物の正面の装飾や入り口、窓や階段にユニークでカラフルな効果を与えました。
ペーチが「欧州文化首都」となったときに明確になったのは、ジョルナイを文化的なプログラムによって復活させなければならないということでした。そのため、古い工場の建物と現在の工場の未使用エリアを再利用することで、大学やその他の文化プログラムなどに開放されるスペースを作りました。当然のことながら、建物とその周辺の通りはすべてジョルナイの特徴的な色や装飾で飾られています。過去と現在がどのように出会ったのか、実にエキサイティングな解決策を見ることができます。工場の建物は昔の状態で再び輝き、その屋根または周囲には工場の輝かしい過去を蘇らせる無数の小さな装飾があります。重要なのは、これらの建物のいくつかは、工場としてまだ機能しているということです。第一次世界大戦後、世界地図が塗り替えられ、ヨーロッパの政治的権力の変化によって工場の原料やその顧客の大半が奪われました。第二次世界大戦後は工場は国有化されましたが、主に磁器の装飾品を製造し続けました。現在は民間投資家の手に渡っており、残念ながら破産に近い状態に置かれています。
またペーチでは、以前は完全に放置されていた建物に、新しい図書館と世界クラスのコンサートホールを建てました。街にある近代建築は、そのユニークな建築様式から、映画や写真の撮影場所として今まで何度も利用されています。近代的かつ何世紀にもわたる古い街並みをロケ地として探しているのなら、まさにペーチをお勧めします。ジョルナイの繁栄時代はこのような魅力的な功績を街に残しました。街は寛大でボヘミアンで賑やかなおかげで、撮影後も快適な時間を過ごすことができます。ペーチまではブダペストから車で2時間の距離です。
上記の街は、ハンガリーの中でどのような種類のロケ場所を見つけることができるかの一部を挙げたものです。これらの都市までは、ブダペストからすばやく簡単に行くことが出来、映画制作クルーの滞在を満たすためのあらゆる機会(ホテル、レストランなど)を提供できます。Progressiveでは、ハンガリーの知られざる魅力的な場所をお客様を通じてより広い世界に近づけることが出来るように尽力しています。そしてローカルの強みを生かし、世界中のプロダクションに様々な選択肢をご提案することが出来ます。