オーストリアでの撮影

オーストリアの首都の歴史

ウィーンの偉大な建築の過去と現在

ウィーンの建築や個性的なロケ地をより深く知るためには、まず何故この都市が何世紀にも渡って発展してきたのかを知る必要があります。私たちのインサイトはバロック様式から始まります;街中にあるウィーンの象徴的な建物が建った頃から始まり、数世紀を経て現在までを掘り下げます。映画が誕生した頃、ウィーンは既に様々なシチュエーションのロケ地として使われていました。バラエティに富んだウィーンの魅力とともに、何故この都市が映画や写真撮影者を魅了してきたのか、歴史と共にご紹介しましょう。

ウィーンの建築や個性的なロケ地をより深く知るためには、まず何故この都市が何世紀にも渡って発展してきたのかを知る必要があります。私たちのインサイトはバロック様式から始まります;街中にあるウィーンの象徴的な建物が建った頃から始まり、数世紀を経て現在までを掘り下げます。映画が誕生した頃、ウィーンは既に様々なシチュエーションのロケ地として使われていました。バラエティに富んだウィーンの魅力とともに、何故この都市が映画や写真撮影者を魅了してきたのか、歴史と共にご紹介しましょう。

迫力のバロック建築

神聖ローマ帝国時代のヨーロッパのバロック建築様式の波は、やがてオーストリアをも飲み込んでいきました。1648まで続いた戦争の影響で、オーストリアは他の国々に比べると文化が花開くのがわずかに遅れ、1650年以降に発展していきました。17世紀初頭のイタリアでは、民衆や支配者たちにカトリック教会の富と威厳を誇示するための最新の建築様式としてバロック様式が栄えていました。改革派教会に信者が流れないよう、できる限りの宗教的で荘厳な建物を次々と建築し、その格調高い建築物は様々な映画でも人々を魅了してきました。


オーストリアの統治者はこの新しい時代の流れに気付き、自分たちの偉大さを知らしめるためにこの建築様式を政治や文化に利用できると考えました。オーストリア周辺での様々な宗派の緊張が緩和してきた頃、バロック建築は次第に王族の権力を強く誇示するためのものになりました。バロック様式は1600年頃にイタリアで誕生しましたが、オーストリアでもその影響を多大に受けており、イタリアから建築家を呼び寄せて現地の技術を取り入れていました。そのことからオーストリアのバロック様式は独自のユニークなスタイルを確立しており、17世紀の西ヨーロッパの文化に多大な影響を与えました。ペーター教会の息をのむような内装をはじめとするオーストリアの驚きのロケ地は間違いなく時代物の撮影に最適です。

Peterskirche  ペーター教会

宮殿と邸宅

ヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントは当時を代表する建築家で、ハプスブルグ家では宮廷技師として遣え、数々の素晴らしい建物を設計しました。イタリアで生まれ、カルロ・フォンターナの元で本場の建築を学んだ彼は、ただ真似をするのではなく、真のバロック様式に則った建築を得意としました。のちに彼がウィーンの建築家のトップとなった折には、宮殿や屋敷、教会や礼拝堂など多くの建物を手掛けました。代表的なペーター教会は美しい楕円形の吹き抜け天井と豪華な内装が施され、時代を代表するものと言っていいでしょう。

豪華なカールス教会

他にウィーンで忘れてはいけないのは、建築家フィッシャー・フォン・エルラッハが改築したシェーンブルン宮殿です。彼はバロック様式だけではなく他の様式も取り入れたユニークな建築スタイルの荘厳な建物を得意としました。同時にイタリアのバロック様式をよりオーストリアの好みに近づけました。ヨーゼフ1世は感謝を込めてエルラッハに貴族の称号を与えています。彼の宮殿は華麗で大胆な構造のダイナミックな力作になっています。


「バロック大帝」とも呼ばれたレオポルド1世、ヨーゼフ1世、カール6世はバロック様式に陶酔し、その面影は現在のウィーンにも色濃く残っています。

ウィーンの暗い冷戦

キャロル・リード監督の代表的な映画「第三の男」は、ウィーンで撮影されただけではなく、第二次世界大戦直後の世相を色濃く反映した作品です。ジョゼフ・コットン、アリダ・ヴァリとオーソン・ウェルズ出演で、暗くて陰気な町で主人公が不可解な事件に巻き込まれていくという不朽の名作です。ドイツ表現主義のスタイルで撮影され、暗く残酷な冷戦を余すことなく表現しています。ロケ地は豪華ながらも荒廃しており、帝国の崩壊を垣間見ることができます。狭い路地や建物の他に、現在も人々に親しまれているプラター遊園地でもロケが行われました。

ウィーンのネオ・クラシック様式-数え切れないほどの町のモデル

18世紀、オーストリアの建築家は再びヨーロッパの建築の流行に乗りましたが、その表現方法は独自のものでした。フランスとイタリアではネオ・クラシックが台頭していました。シンプルで幾何学的、かつ洗練され調和の取れた建物は、古代ギリシャやローマ建築を手本にしています。ウィーンではこのスタイルをより自由に表現しており、華麗なものになっています。バロック様式がそうであったように、ネオ・クラシック建築も国内だけでなくブダペストやプラハ、ブラチスラバ、クラクフなど、オーストリア=ハンガリー帝国の他の大都市にも影響を及ぼしました。

Youtube ウィーンの映像集

デンマーク人のテオフィル・ハンセンはネオ・クラシック様式を更に簡素化したことで知られています。彼はウィーンの環状線沿いにあるオーストリアの国会議事堂をデザインし、民主主義発祥の地である古代ギリシャのモチーフを民主主義の象徴である議事堂に取り入れる演出をしました。ウィーン楽友協会も彼の設計ですが、ここは現在でも最も権威のあるコンサートホールとして最高の音響効果を誇り、映画やコンサートの録音をするのに最適な場所になっています。

民主主義の象徴:ウィーンの国会議事堂
風変わりな形のセンパーデポはコンサートホールとして利用されています

ゴットフリート・センパーはその時代を代表するドイツの建築家であり、ウィーンの環状線の再設計や国立美術史美術館、国立自然史博物館や世界的に権威のあるブルク劇場などを設計しました。またセンパーデポはエレガントであると同時に、ミニマリスト建築の中庭はアール・ヌーボーの先駆けともなっており、ここで撮影された2015年の映画、「黄金のアデーレ 名画の帰還」では過ぎ去ったウィーンの姿を垣間見ることができます。これらのロケ地は有難いことに乱用されることもないため、変わらずに魅力的なまま残されています。

ウィーンのユニークな独自のアール・ヌーボー

ウィーンの芸術家と建築家のグループはウィーン分離派という、過去の様式にとらわれない、より明るく女性的な独自のアール・ヌーボーを創り出し、画家のグスタフ・クリムトを筆頭に造形美術協会を結成しました。彼らの芸術はヨーロッパの各方面に影響を及ぼしていきました。

例を挙げると、ウィーンの都市計画顧問であったオットー・ワーグナーがデザインした駅舎はカラフルな装飾が施され、今までのヨーロッパの建築様式とは一線を画しています。ウィーン郵便貯金局はセセッションから更に進化し、華美な装飾を省いた機能的建築でありながら他に類を見ない洗練された美しさがあります。

ワーグナー設計の美しい金色のパビリオン

アドルフ・ロースは「装飾は罪悪である」と主張し、代表作のロースハウスは装飾を一切排したモダニズム建築の先駆的な作品です。彼いわく:「罪深い人間は過度な装飾を好む」。彼の設計した建物は徹底的にシンプルを追求したため、しばしば「眉毛のない建物」などと陰口を叩かれましたが、後にモダニズムとミニマリズム、新合理主義の先駆けとなりました。しかし皇帝フランツ・ヨーゼフは王宮から見えるこの建物を大変嫌ったといいます。

君主に大胆に立ち向かった勇敢なモダニズム

これらの場所は20世紀の変わり目の変化と創造のエネルギーを捉えることのできる理想の場所です。この革新のエネルギーは通りのあちこちで新たなプロジェクトのカメラの中に収めることができるでしょう。

モダン

ウィーンの建築の至宝は建築家フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーによるフンデルトヴァッサーハウスでしょう。色彩豊かで自然と共存するという美学はある意味セセッションを取り入れているように思えますが、彼は更に先に進んで独自の路線を歩み続けました。このアパートは今でも人気があり、多くの観光客も訪れています。


建築家ギュンター・ドメニッヒも自然の曲線美を得意としましたが、ブルータリズム建築様式を基に彫刻を思わせるような輪郭のはっきりしない建物を多く建築しました。一番分かり易いのはシュタインハウスと呼ばれる彼の自宅で、文化的に重要な役割を果たしています。

Steinhaus am Ossiachersee 2016-04-25 シュタインハウス

映画「恋人までの距離」での一番大事なロケ地はウィーンの西駅です。ストーリーはこの近代的な駅から始まり、二人の旅人がウィーンの町を目的なく散策した後のシーンにも使われています。


ポストモダン建築で有名なのはプリツカー賞を受賞したハンス・ホラインです。アメリカ合衆国やスウェーデンで建築を学んだ後、彼はウィーンでキャリアをスタートさせました。彼の建物は自然美と幾何学、ミニマリストと装飾的という相反する様式が混在しており、ガラスと大理石など異なるスタイルの材料を組み合わせた建物は上品でスタイリッシュであり、ミニマリズムの折衷でもあります。しかしながらシュテファン寺院と向かい合う形で建てられているこの建物は、当時の民衆には受け入れ難いものでした。

国際的に賞賛を受けるイラクの建築家、ザハ・ハディドはオーストリアでザハ・ハディドハウスなど多くの建物を手掛けました。ウィーン経済大学のラーニングセンターは内装の殆どが35度に傾いた変わった建物ですが、残念なことに完成を見ることなく彼女は突然死してしまいました。

ザハ・ハディドのデザインによる図書館の内部 

このようにウィーンは建築様式の宝庫であり、それぞれが芸術の歴史を表現しています。そのためこの大都市は大変バラエティに富んでおり、無限の可能性を感じることができます。オーストリアの首都であるここは写真や映画のロケ地をお探しの皆様に様々なヒントを与えてくれるでしょう。


ここまでオーストリアの建築についてご紹介しました。次にご紹介するのはチロル地方についてです。

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