モーツァルトからFalcoまで

3世紀にわたるオーストリアの音楽

オーストリアの賑やかなミュージックライフ

息を飲むような山々と素晴らしい風景が、オーストリアとその首都ウィーンを長い間ヨーロッパ、そしておそらく世界のクラシック音楽の中心地として育て上げたのは驚くべきことではありません。ここを訪れ、これらの歴史的な場所を目の当たりにすれば納得して頂けるでしょう。映画制作者や写真家にとって嬉しいことは、ここでは音楽や文化と共に素晴らしいロケ地が沢山あることです。そして撮影後にリラックスするのに理想的な余暇の楽しみも忘れてはいけません。オーストリアの文化をより深く理解するために、文化と音楽を切り離すことが出来ない理由をまとめてみました。

息を飲むような山々と素晴らしい風景が、オーストリアとその首都ウィーンを長い間ヨーロッパ、そしておそらく世界のクラシック音楽の中心地として育て上げたのは驚くべきことではありません。ここを訪れ、これらの歴史的な場所を目の当たりにすれば納得して頂けるでしょう。映画制作者や写真家にとって嬉しいことは、ここでは音楽や文化と共に素晴らしいロケ地が沢山あることです。そして撮影後にリラックスするのに理想的な余暇の楽しみも忘れてはいけません。オーストリアの文化をより深く理解するために、文化と音楽を切り離すことが出来ない理由をまとめてみました。

モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン…ウィーンのクラシック音楽の誕生

ベートーヴェンのことを冗談で音楽界のモーツァルトだと言う人もいます。まぁ、誰もがこれを面白いとは思わないかもしれませんが、少なくともヨーロッパ中では音楽と言えばモーツァルトやベートーヴェンなのです。文学ならシェイクスピア、絵画ならダ・ヴィンチ、物理学ならニュートンのように、音楽と言えばこの二人と言われています。彼らの生活と仕事がオーストリアとウィーンになぜ強く結びついているのかが分かれば、ウィーンがヨーロッパのクラシック音楽の中心地とされているのかが明らかになってきます。

 ウィーンの「三大巨匠」モーツァルト、ベートーベン、ハイドン

18世紀と19世紀のウィーンは神聖ローマ帝国の首都であり、後のハンガリー・オーストリア帝国のほかハプスブルク君主国の本拠地でもあり、ヨーロッパ最大の帝国の中心になっていました。その後、3人の "ウィーンの巨匠" ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドンがウィーンに拠点を移した頃は、帝国の首都では古い音楽が豊かな貴族によって支持されていました。貴族たちは、しばしば音楽家に資金を提供したり、作曲家や演奏家を雇って豪華な宮殿でコンサートを催したりしていました。モーツァルトやハイドンの友人や指導者たちが貴族のエステルハージ家の宮廷で人生の大部分を費やしたことはこのことが理由です。

モーツァルトの銅像、フォルクスガーテン、ウィーン

モーツァルトとハイドンの功績により作曲家たちは徐々に尊敬を集め、この時期に社会での地位が急速に高まって行きました。ウィーンの巨匠たちは20年も経たないうちに音楽の芸術的価値まで変えてしまいました。ただのバックグラウンドエンターテイメントから尊敬される高級芸術の域まで音楽を高めることに成功したのでした。このことはウィーンの文化に大きな発展をもたらしました。ベートーヴェンがウィーンに移った時点で、この都市は既にヨーロッパで音楽の都であり、作曲の首都とされていました。 20年前のように、パリはオペラの故郷であり、ロンドンは楽器演奏会の本拠地でしたが、1800年頃のウィーンはあらゆる音楽の中心であったのです。

ウィーンオペラ座でのグスタフ・マーラー


19世紀のウィーンでは、社会においての音楽の役割を発展させ、音楽教育の基盤を作り上げました。1800年代にヨーロッパ初の音楽院が設立され、数百人の学生がプロの教育を受け、ミュージシャンや作曲家として卒業しました。1817年にウィーン音楽院(音楽と舞台芸術のための総合芸術大学、のちのウィーン国立音楽大学)が設立され、その最も有名な卒業生の一人は世界的に有名な指揮者で作曲家のグスタフ・マーラーです。マーラーは1878年に学位を取得し、その後1897年から10年間、ウィーンのオペラハウスのディレクターを務めました。ここは今日まで、世界最大規模の音楽教育センターとなっています。

Musikverein, Vienna

音楽院の設立と同時に、プロの演奏家のみで結成されたオーケストラが数多く生まれました。その多くが世界的に有名なウィーン・フィルのように世界最高のレベルとされています。企業などが資金を提供して、文化・芸術活動を支援するメセナがまだサポーターとして重要な役割を果たしていた頃に新たに設立されたオーケストラはビジネスとしてコンサートを企画していたため、オーケストラでの演奏はミュージシャンの正式な職業となり、それによって貴族の裁判所の一員として参加したり、または教会と契約することなく生計を立てることが出来るようになったことにより、さらにダイナミックに音楽が発展して行きました。19世紀初頭の最も有名な作曲家と言えばフランツ・シューベルトですが、彼は生涯ウィーンを中心に活躍しました。ロマンチックな作曲家として多くの人々に賞賛されていましたが、彼の創造的な人生はわずか31年で閉じたのでした。

フランツ・ヨーゼフI世のためにベーゼンドルファー製のピアノを弾くフランツ・リスト写真: Wikipedia

19世紀の後半にも、オーストリアでは音楽が繁栄し続けました。オーケストラはウィーン国立歌劇場のような壮大なコンサートホールで演奏を披露することができました。1869年に建設されたこの美しい建物は、撮影場所としてもエキサイティングです。トム・クルーズ主演の「ミッション・インポッシブル」もここで撮影されました。注目すべきもう一つの建物はウィーン楽友協会で、黄金の間は世界でも最高の音響を持つコンサートホールのひとつです。この時代はワルツがウィーンでとても人気があったことからヨハン・シュトラウス2世が活躍していました。その活躍ぶりから彼がその時代のワルツ王と呼ばれたのも不思議ではありません!ウィーンはまた、ハンガリーのピアノの巨匠、フランツ・リストの人生においても重要な役割を果たしました。彼の演奏の迫力に魅了された人々がヒステリー状態に陥る現象を、詩人のハインリヒ・ハイネはリストーマニア(Lisztomania)またはリスト熱と揶揄しました。

ザルツブルグ ― モーツァルトとサウンド・オブ・ミュージックの街

オーストリアで最も象徴的な場所の一つであるザルツブルクは、畏敬の念を抱かせる美しいアルプスの街です。モーツァルトの生誕地であり、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の故郷でもあるこのゴージャスなバロック様式の旧市街は、音楽の街として世界中で有名になっています。

モーツァルトの故郷

ザルツブルグは完全にモーツァルトの街となっています。 なぜなら彼の名前を街中のあちこちで見つけることが出来るからです。彼の銅像はもちろん、モーツァルト広場に立っていますし、モーツァルトが生まれた家は、ザルツブルグの旧市街のメインストリートにあります。この通りはGetreidegasseと呼ばれています。 Makart広場では、ザルツブルグ大司教の宮廷音楽家として仕えていた時の、若い頃に住んでいた家を見つけることができます。ヨーロッパで最も有名な音楽教育機関の1つも彼の名前を冠しています。その名もモーツァルテウムザルツブルグ。更にザルツブルグの菓子職人、ポール・フュルストが作った世界的に有名なモーツァルトクーゲンもあります。モーツァルトとザルツブルクは切っても切れない関係にあるのです。

映画「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ一家の街

モーツァルトの他にも、ザルツブルグでは有名な楽曲が沢山生まれました。代表的なのは1818年のヨゼフ・モール作詞、フランツ・グルーバー作曲の「きよしこの夜」があります。また、20世紀に最も尊敬を集めた指揮者の一人、ヘルベルト・フォン・カラヤンもここで生まれ、広場に彼の名前が付けられました。しかし、これにもかかわらず、モーツァルトの次にザルツブルグで知られているのはマリア・フォン・トラップではないでしょうか。彼女は映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主人公で、この映画によってザルツブルグは世界的に有名な街になりました。この物語は、街の最も美しい広場、通り、城で撮影されました。たとえば、モーツァルテウムという団体の拠点である城の前で撮影された場面もあります。ミラベル宮殿やレオポルズクロン宮殿以外にも、モーツァルト広場に隣接するレジデンツ広場やカラヤン広場などのバロック様式の広場は数多くの場面で重要な役割を果たしました。

Youtube サウンド・オブ・ミュージックの名曲「ドレミの歌」

5つのオスカーを獲得したこのクラシック映画はザルツブルグと切っても切れない深いつながりを持つようになり、現在でも何十万人もの観光客が映画のロケ地を訪れて、トラップ一家と自身の幼少時代に思いを馳せています。

生きる伝統 - 現在のウィーンのクラシック音楽のイベント

オーストリアはウィーンの音楽の巨匠達のおかげで、18世紀と19世紀に世界の音楽の中心地となり、以来、この伝統を維持し続けています。クラシックや現代音楽は依然としてオーストリアの文化の中で高く評価され、尊敬されています。そして全国で音楽愛好家が参加できる無数の祭典、オペラ公演、舞踏会、コンサートが催されています。

ウィーンのニューイヤーコンサート:世界で最も重要なクラシックコンサート

オーストリアの音楽イベントの中でも、ウィーンフィルによるニューイヤーコンサートは、おそらく1939年以来毎年開催されている最も有名なコンサートです。このイベントは、世界で最も重要なクラシック音楽のコンサートであり、ウィーン楽友協会の黄金のホールで開催されています。伝統的にヨハン・シュトラウスや同時代の他のウィーンの作曲家のワルツやポルカなどの楽曲を演奏することになっています。ニューイヤーコンサートで欠かすことのできない最も有名な作品は、ヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」とヨハン・シュトラウスの「ラデツキー行進曲」です。ラデツキー行進曲では指揮者が観客を煽り、リズミカルな拍手と共に賑やかに演奏されます。コンサートでは毎年世界で最高の指揮者が選ばれています。コンサートは非常に人気があるため、観客は1年前に登録されたリストから無作為に選ばれるシステムになっています。このイベントは世界中の90カ国で放映され、何百万人もの人々に視聴されています。近年バレエのパフォーマンスも加わり、更に面白いものになりました。

Youtube ウィーン楽友協会でのニューイヤーコンサート

ウィーンオペラ座の舞踏会

ウィーンでニューイヤーコンサートに続いて豪華で有名なイベントはオペラ座の舞踏会でしょう。これは1814年から始まりましたが、第二次世界大戦によって長い間中断されており、1956年から再び定期的に開催されるようになりました。


舞踏会は伝統的にキリスト教の「懺悔の火曜日」の前の木曜日に開催される舞踏会シーズンでも最も重要なイベントで、オーストリアの大統領や首相も含む上流階級全体がこのイベントに参加します。舞踏会には厳しいドレスコードがあります。男性は黒い燕尾服と白い蝶ネクタイを着用しなければならず(黒い蝶ネクタイはウェイターが着用)、女性は床まで届くロングドレスを着用し、長い髪をアップにしなければいけません。

Youtube ウィーンの舞踏会シーズン

この豪華なイベントは厳密なプログラムに従って構成されています。舞踏会は午後10時にトランペットのファンファーレと共に、大統領とゲストが皇室のバルコニーに着席する場面から始まります。オープニングセレモニーのハイライトは、180人のデビュタントと呼ばれる若いカップルのダンスです。このダンスは慎重に選ばれたデビュタント達の社交界デビューのための非常に重要なイベントです。デビュタント達は古典的なダンスを踊り、最後は必ずヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」で締めくくります。オープニングダンスの後は「Alles Waltzer!」という掛け声と共にダンスフロアは他のゲストに開放されます。

オペラ座の広間やラウンジでは、ワルツからディスコ音楽まであらゆるジャンルの音楽によるダンスの機会があります。各フロアには常時ケータリングサービスがあり、Casinos Austriaの提供でルーレットで遊ぶことができるだけでなく、美容院や仕立て屋もあります!公式に許可されているわけではありませんが、午前5時頃に舞踏会を終えて帰るゲスト達は、花の飾りを家に持ち帰ったり、ラストダンスをまだ踊っているカップルに残った飾りを投げたりすることがあります。

Wiener Opernball 2013

ウィーンのオペラ座は非常に上品ですが、とても高価なことでも有名です。ボックスシートは21000ユーロですが、それには290ユーロの入場料とケータリング料は含まれていません。約5000人のゲストの他に有名人もこの豪華なイベントに訪れています。舞踏会に毎年訪れる最も有名な常連客は、パメラ・アンダーソン、ジーナ・ロロブリジータ、ソフィア・ローレン、ロジャー・ムーア、パリス・ヒルトン、キム・カーダシアンやオーストリアの起業家リチャード・ルグナーなどです。

オペラ座はとても人気があるので、舞踏会の主催者はオペラ座の他のプログラムの合間に最短で準備を行わなければいけません。そのため、彼らはたった一日で舞踏会用の飾り付けをすることになります。この広間は通常、ステージと観客席で埋められていますが、舞踏会ではすべての席を取り除き、舞台の高さまで床を底上げして木で覆うという大変な作業を行なっています。


ウィーンのオペラ座は言うまでもなくオーストリアで一番大きい劇場ですが、ここの他にも多数の劇場があり、毎年800もの舞踏会が開催されています。ザルツブルグやインスブルック、グラーツでも同様です。

壮大なコンサートホールのジャンルを越えた音楽

世界中でオーストリアは真の音楽の国と見なされていますが、この美しいアルプスの国が壮大なコンサートホールやオペラハウスで催されるクラシックジャンル以外にも賑やかなミュージックライフがあることはあまり知られてまいません。

Youtube ウィーンのサマーナイトコンサート

オーストリア最大の音楽祭

オーストリアでは春から秋にかけて、エキサイティングで国際的にも評価の高い音楽と芸術祭が数多く催されています。オーストリアへ映画や写真撮影で訪れた折にリラックスしていただくため、我々はいくつかのプログラムをピックアップしてみました。


オーストリアの祭典の中で最も有名なのはザルツブルグ音楽祭です。これは1920年にモーツァルトの故郷で初めて開催され、以来毎年数週間、街全体がステージに変わります。世界的に有名な音楽家がコンサートを行い、オペラなどを披露して観客を喜ばせています。伝統的に音楽祭のハイライトの1つは、フーゴ・フォン・ホフマンスタールの作品「イェーダーマン」の演奏となっています。

ブレゲンツ音楽祭は、レベルが高いコンサートやオペラで有名なだけでなく、一風変わった演出によってオーストリア最大のエキサイティングで特別な音楽祭のひとつとなっています。その演出とは、ボーデン湖上に作られるSeebühneと呼ばれる世界最大の浮遊式ステージです。ステージの背景にはボーデン湖の壮大なパノラマが広がっています。他に類を見ない舞台と素晴らしいセットのデザインは、音楽愛好家だけでなく、映画制作者たちをも魅了しています。例えば2008年のジェームス・ボンド映画の「007 慰めの報酬」でも重要なシーンがここで撮影されました。トスカの演奏中に繰り広げられるエキサイティングなアクションシーンは、プッチーニの旋律を背景にドラマチックなシーンとなっています。


ドナウ・インゼル・フェストウィーンの野外の現代音楽コンサートです。3日間にわたるフェスティバルでは、各国から集まったミュージシャンが様々なステージを披露します。ドナウ・インゼルはドナウ川にある全長6.5㎞の中洲のことで、フェスティバルには毎年300万人もの人が訪れます。ドナウ・インゼル・フェストの伝説的なコンサートは1993年のファルコのコンサートで、23万人もの観客を動員しました。

Youtube 2016年のドナウインゼルフェストの映像

ファルコからコンチータまで - オーストリアのポピュラーミュージック

オーストリアのポピュラーミュージックはクラシック音楽ほど実績があるわけではありませんが、ポップミュージシャンの中には忘れてはならない人々もいます。

1980年代のオーストリアで一番知られているシンガーソングライターといえば間違いなくファルコでしょう。彼はウィーンのアンダーグラウンドミュージックを台頭し、1986年の「ロック・ミー・アマデウス」で国内だけではなく全米と全英のミュージックチャートでもドイツ系の歌手として初めて一位を獲得しました。他にも多数の有名シングルを収録したアルバム「デア・コミッサー」などもリリースしましたが、同時に彼は深刻なアルコールとドラッグ中毒でも知られていました。生涯では2千万のアルバムと4千万のシングルを売り上げ、オーストリアで最も成功した歌手となったのでした。

2000年以降のオーストリアの音楽界を牽引してきたミュージシャンといえば、パロヴ・ステラーでしょう。彼はリンツで生まれ、本名はMarcus Füreder、ミュージシャンであると同時に音楽プロデューサーでありDJでもあります。ジャズやハウスミュージックを土台にエレクトロなどを融合させた独自のスタイルのパイオニアとして知られています。それらの曲はテレビやコマーシャルなどで何度も使われ、それによって世界的に有名になりました。ラナ・デル・レイやレディ・ガガらとも競演したことがあります。

Youtube コンチータ・ヴルストのユーロビジョンでの圧倒的なパフォーマンス

2014年、オーストリアの音楽界は大きく前進しました。コンチータ・ヴルストとして知られるトーマス・ノイヴィルトが、ユーロビジョン・ソング・コンテストでオーストリア代表として出場し、優勝を果たしたのでした。ドラァグクイーンとしての衝撃的なビジュアルと圧倒的な歌声で勝利を勝ち取った彼女は、ヨーロッパのLGBTのアイコンとなり、ロンドンのトラファルガー広場で開かれたプライド・パレードでもパフォーマンスをしました。ヨーロッパ議会やシドニーのオペラハウスでも歌声を披露しています。しかし、東ヨーロッパでは少数の政治家が彼女のような人物がヨーロッパを衰退させるなどと言い、彼女の勝利に憤慨しました。しかしながら、2015年の彼女の活躍のおかげで、1967年のUdo Jürgensの勝利以来初めて、60回目のユーロビジョン・ソング・コンテストがウィーンで開催されることになったのでした。

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